「子どもを選ばないことを選ぶ」から長谷川先生のことば
北沢地域 S.

 「…『21番目の染色体には人間関係調整遺伝子があるのではないかしら』と長谷川知子さんはおっしゃいます。ダウン症の子どもたちはまわりの人たちと人間関係を築く能力に長けていることと、ダウン症の子どもたちは21番染色体が正常型と比べて一本多いことを結び付けて、長谷川さんはこのように表現されるのです。人間関係調整機能の決して高くない人も少なくない現実や、心のすさむような事件の数々を思い、実に説得力ある意見で私は思わずうなずきました。…」(大野明子著「子どもを選ばないことを選ぶ」)

 「子どもを選ばないことを選ぶ」を一気に読んでしまいました。ダウン症をもつ子の親として、自分が言ったら親だからと誤解されることを恐れ、言えなかったことがビッシリ書かれています。是非読んでみてください。大野明子さんの言動も素晴らしいですし、それを支える長谷川先生も素晴らしい!!今まで自分が思っていたこと、感じたこと、やってきたことはよかったんだ…!と。私の娘は20歳になります。親の年齢を考えると、ちょうど今がターニングポイントかなと思っていましたので、本からエネルギーをもらうことができました。

 長谷川先生には講演会でダウン症をもつ子どもたちの身体的特徴や発達、また合併症に対する医学的ケアー等について詳しくお話いただけると思いますが、大野さんの本の中での先生のお考えをご紹介します。

[療育の現状について]
 「一般的には療育センターや通園施設などと呼ばれているところで、早期療育が行われています。内容は類似しており、親子で遊ぶところから始め、手遊びや体操をします。親の勉強会をしているところもあります。熱心な施設ばかりで感心します。ただ、そういう現場にありがちな、障害をもった特殊な子を扱っているという意識や、なんとなく障害児には療育すればいいという意識に対して、私は疑問を感じます。つまり、親も先生たちも子どものことを社会に入りにくい、特別な子だと最初から位置づけています。その出発点から、その子たちをいかに、いわゆる普通に近づけるかと考えているのです。けれど、その意識は差別意識ではないでしょうか。

 障害をもつ子どもたちは特殊ではなく、本来は同じ人間です。ただ、ほかの子どもたちより弱いところがあります。その弱いところに、どのように関わるか考えるのが本当の療育です。その子が社会に入りにくい要因があれば、それをどのように援助するか、専門的にもっと考えるべきです。

 では、どうすればいいのでしょうか。もっとも重要なのは親への療育ではないかと私は考えています。親への療育がまず必要なのに、子どもばかり関わり、親の存在が置き去りになっていることが多いこと、これは訓練至上主義とも言われますが、それが現在の問題です。…」

[親の自立をサポートする]
 「子育てに必要なのは親の自立です。自立して自分で考える人たちが、これから生まれてくる人たちを支えられるのだろうと思います。ですから、親が自分で考え自立することをサポートしたいです。

 『親の会』の果たしている役割は大きいです。けれど、すでに子育てを終えた親たちが抜け、小さい子どもたちを持つ親ばかりになり、横割り構成の仲良しクラブになっていることが多いようです。するとダウン症の人の育ちの情報にしても、本当は先輩たちがたくさん持っているはずなのに情報の集積がされません。成長した子どもを持つ親たちは、子どもの成長過程でさまざまな人に助けられてきたはずです。ですから今度は小さい子の親たちを助けていく、それこそが真のボランティア精神であり、親の会がそのように発展することを願っています。」

[ふつうに生活できるようにすること]
 「ノーマライゼーションとは『障害をもつ人も、老人も子どもも、同じ社会の一員として存在している社会がノーマルであり、障害をもつ人たちが同年齢の人たちと同等の権利を持ち、同様の生活ができるように生活条件・生活環境条件を整えよう』という考え方です。つまりノーマライゼーションの意味するところは、ふつうに近づけるではなく、ふつうに生活できるようにすることです。ふつうに近づけるという発想は、障害を持つ人を見下しているところがあります。

 ノーマライゼーションという言葉を最初に使ったのは、1950年代の初め、デンマークの行政職の役人であったパンク・ミケルセンです。彼は親の会の求めにより、障害者施設の悲惨さを憂える要請書を行政に提出し、この言葉はその見出しとして使われました。ミケルセン自身も、障害者を健常者に近づけることとはまったく違うと述べています。」

[生活の場としての学校]
 「教育する側には、普通学級以外のところは、普通学級より能力の低い子が行くところだという意識が歴然とあります。親たちはその部分に抵抗しています。つまり、発達学級や養護学校など普通学級いがいのところは、ふつうに近づけるための教育が見えています。親たちはそんな差別意識を敏感に感じるからこそ、普通学級に行くことを望むのです。 (中略)

 学校の目的が勉強だけであれば、障害を持つ子どもたちには普通学級は無理だということになります。けれども普通学級に行く意味は勉強だけではありません。学校は本来、社会生活の場でもあります。社会においてどんな人と付き合うと生活しやすいかなどの考えも学べるところです。ですから普通学級にいくかどうかを障害の程度によって判断する必然性はないと私は考えます。」