ダウン症の子どもたちの保育と教育

(1)からだで抵抗をのりこえる

 ダウン症の子どもたちのほとんどが、生まれながら筋緊張が低いのです。だから乳児期からの「赤ちゃん体操」がたいせつにされているのでしょう。しかし、筋力をつけるだけでよいのではありません。

 ダウン症の子どもたちは乳児期において、人や物に向かう意欲が高まらないままに成長することがあります。そういった子どもたちは、おそらく乳児期の人見知りや分離不安があまりみられないでしょう。そのことと筋緊張の低さは無関係ではありません。腹ばいで首をあげられたとき、寝返りでおかあさんに近付けたとき、すり這いで一歩前に進んだとき、子どもはうれしくて新しい自信に溢れるときです。しかし、ダウン症の子どもたちは、その喜びを味わう量も、そして喜びの大きさも筋緊張が低いゆえに小さいのです。

 ダウン症の子どもたちの乳幼児期でたいせつなことは、筋緊張を強めるためのからだへの働きかけだけではありません。首をあげることも、寝返りも、這い這いも子どもにとって大きな矛盾をのりこえるしごとです。その矛盾を共有し合い、同じ目の高さで挑み、いっしょにのりこえていくようなパートナーが求められているのではないでしょうか。その人の存在によって、一人では味わうことのできなかった喜びが生まれ、次に挑戦しようとするような「心のバネ」がつくられていくのです。そして、そのパートナーとの共感の世界が、人を求めてやまない心を、きっとダウン症の子どもたちに高めてくれるでしょう。

 自らの足で階段を這い上がり、自らの足で立ち上がろうとするようになったダウン症の子どもたちは、そのころから素敵な指さしで発見の感動を伝えてくれるようになります。「行きたいのに行けない」というからだでの「二分的世界」を克服した喜びが、なにごとも不思議と思う感動の心と、その心を伝えようとする力をよびおこしてくれたのでしょう。この発達の道すじは障害があろうとなかろうと同じです。しかし、ダウン症の子どもたちの指導には、もう一歩、子どもの目の高さにおりて、一つひとつを子どもの心に寄り添って共感していく、丁寧さが必要なのです。

 ダウン症の子どもたちは人や物に向かう意欲が乏しいと、歩けるのにいつまでも手をヒラヒラさせたり、砂をすくってパラパラ落としたりする常同行動が続くかもしれません。そんなとき、もしすでに歩いたり走れるようになっていたとしても、からだで矛盾をのりこえた達成感をたくさん味わい、「もっとしてみたい」「新しいことに挑戦してみたい」という「心のバネ」が強くなるような保育・教育をたいせつにしたいと思います。

 発達には、ある時期に獲得されるはずの力が弱いままで宿題として残ってしまうことがあります。それは、気がついたときに再教育によって、もう一度しっかり獲得しなおせばいいのです。その「やりなおし」ができるのも、人間の発達と人間の仕事である保育・教育のすばらしさです。そのときの指導は、歩けたり走れる子どもに、這い這いによって矛盾をのりこえさせるような機械的な立ち戻り方ではなく、今持っている運動能力などの力をたいせつにして、その力で矛盾に挑戦し、達成感を味わえるように工夫する必要があります。


白石正久『子どものねがい、子どものなやみ』(かもがわ出版)
p.57-58より



(2)生活の中でイメージを育てる

 ダウン症の子どもたちは模倣がじょうずだといわれています。しかし、その模倣の中に生活の香りを感じることがあまりないように思います。教えてあげた手遊びや、おとなが笑ってくれるギャグはくりかえすのですが、おかあさんや先生のしごとに憧れて自分からぞうきんがけをしてみようとしたり、お皿を洗ってみようとするでしょうか。*

 人へ向かう意欲の乏しさが、人がしていることに向かう意欲、つまり憧れる心を弱いものにしていないでしょうか。そして、ついついおとなも、子どもがうれしそうに演じてくれる手遊びやギャグばかりを子どもに求めているのではないでしょうか。** それでその瞬間は「楽しい」という感情を共有できても、「机がふけた」『お皿がきれいになった」という活動の意味を理解し共有する次の段階へは、なかなか進んでいかないのです。こんな意味の理解と共有がなされてはじめて、「ぞうくん」「おさら」「ふく」「あらう」などということばも使えるようになります。そしてぞうきんでふくまね、お皿を洗うまね、という意味を理解しての「みたて・つもり」遊びも育ってくるのでしょう。そして、意味あるしごとができたことが、きっとダウン症の子どもたちの自分への自信を高めてくれるはずです。

 また、模倣する力があるゆえに、カードなどを使って早い時期から発語の訓練を行うことがあります。手本を示した通りに模倣して発声できるようになりますが、そのカードをみせられたときだけ名前を言えるという限られた力になっていないでしょうか。カードを見て「イヌ」と言えても、街角で出会った犬を「イヌ」と命名できないことはありませんか。「イヌ」という発声は模倣することはできても、そのことばにいろいろな犬のイメージをつなげて理解し、発語することはできていないのです。ことばは子どもの自発的な探索のなかで、おとなとその発見の喜びを共感しつつ、基礎がつくられていくのです。その土台つくりを省略して、目に見える結果を求めても、生きてはたらく発達の力にはならないでしょう。

 このようにダウン症の子どもたちは、かたちだけを模倣することになりやすく、意味を理解しそれを共有するような模倣がむずかしいのです。指導がこのような発達の「ずれ」に依拠して「できる」という目に見える結果を求める方法に陥ると、いっそうその「ずれ」を固定化することになってしまいます。あせらず、ゆっくりと、長い人生を、人としての発達の道すじを歩きながら、ことばの根っこを太らせましょう。


白石正久『子どものねがい、子どものなやみ』(かもがわ出版)
p.59-60より



長谷川先生注:
* 幼児期に関心をもってしようとする子は多いようですが、親ごさんが一緒にしようとしなかったり、他のことをさせて止めさせてしまったために、意欲が消えてしまうこともよくみられます。
** 身近の人や物事に憧れず、アニメやアイドルなど非現実で空想の世界に憧れ、入り込んで、現実を避けてしまう人も多いのは、この結果かもしれません。