谷口奈保子先生講演会    2011.05.15


恵比寿の町に住んで

 私は夫が恵比寿で生まれ育ち、自営業なので転勤がないのです。その人と結婚した私は恵比寿に骨をうずめる人間ですので、そこで子育てをしながら地域を見回した時に、障害者といっても車いすや白杖を使っている人、耳が不自由で手話で会話をしている人は障害があるんだなとすぐわかるんですが、30年前に私が一地域住民として生活をしていて、知的に障害のある人は一体どこに暮らしていて、どこで働いているのか、どこで勉強しているのか、まったく見えなかったんです。住民としてはそれがとても不自然に思いました。

 社会というのはいろいろな人で構成されています。健常者だけで構成しているわけではない。障害がある人もいるし、小さな赤ちゃんもいれば、お爺ちゃんお婆ちゃんもいらっしゃる。外国人も恵比寿には多いです。そういうことでは知的に障害のある人も社会の一員としてそこに住んでいるはずなのに見えない。これは非常に不自然でした。私にはとても奇異に感じたんです。で、一体どこにいるのかということで、ずいぶん悩みました。私は正義感が強くて、納得しないときは、とことんそのことに触れないと気がすまないものですから。

 そういうことで疑問に思っていた時に、長女が小児がんで11か月の闘病生活の末に、4歳半で亡くなったんです。人の命っていうのは本当に金では買えないものなんですね。そういう過酷な1年間の闘病生活を30歳そこそこで経験したものですから、何かしら問題を抱えていて本当に困っている人はたくさんこの世の中にいるはずだから、そういう人たちのお役に立ちたいと、33歳からボランティア活動を始めました。

 私は病院でボランティアを9年間続けました。娘がお世話になった日大板橋病院の小児科・小児外科で週一回、難病児だけで300人のお世話をしました。そして、その中の100人が私の前で亡くなっていったのです。しかし活動3年目で、これはもう自分の経験だけでは解決できないと思い、福祉を学ぶために、母校の大学に戻りました。

 そして在学中に、青鳥養護学校(現在の青鳥特別支援学校)の教育実習で、知的に障害のある人たちと初めて出会って、高校1年生の担任を2週間したんですね。そこですごく大きな学びをしました。そして、実習終了後に校長先生にお願いして、更に2年半、その生徒たちが卒業するまで週1回、全て先生と同じことをやらせていただいた。これが実は今の活動の土台になっているんです。そのような経緯から、知的に障害のある人たちの生き方というものにスイッチしてしまった。それが40歳の時です。

障害がある人も社会の中であたり前の生活を

 先ほど「ぱれっと」の理念に触れましたが、障害がある人も社会の中であたり前の生活ができる社会作り、これが私たちの目標です。私がスタートした時、なんと理不尽な社会だろうと憤りを感じました。学校教育という場ではたいそう熱心な先生方が障害児の教育に関わられていて、生徒は高校まで教育をうけることができても、当時は、社会に出た後の彼らのための器がなかったんです。皆無と言ってもいいほどでした。あっても、親御さんが作った作業所だけでした。それだけでは私は納得できなかった。それで彼らが社会人と言えるのだろうか。親子で働いていて自立と言えるのだろうか。20歳になったらもう親御さんの手を離れてもいいんじゃないか。しかし、安心して子供たちを託せる社会にはなっていない。それは親御さんだけの責任じゃない。一般の市民も含めて、考えていかなければならない社会問題じゃないか。というふうに社会の矛盾にぶつかりながら、私はこれまでこの問題を社会に突き付けてきたんです。地域で生活しているあなたたちも一緒に考えなければならないのだと。

 高齢者の問題も同じですよ。お爺ちゃんお婆ちゃんは身近にいますから、歳をとれば自分もいずれというふうに感じられるけれど、全人口数から見ると知的に障害がある人はマイノリティーですから、そういう意味では知らなかったら知らないで一生過ごす人はいくらでもいるわけです。だとしたら、そういう人たちにも、障害者は社会の一員なのよと言って押し出さないと、誰もわからない。触れないで一生過ぎてしまう健常者がたくさん出てくる。「それはあなたたち関係者の問題でしょう、私たちはわからないから任せる」と、普通のお子さんを持つ親御さんだったらそうなってしまいかねないのです。

 それは違うと思う。人として生を受けた以上、障害があろうとなかろうと、社会で一人の人間がきちんとした形で生きていかなければならない。そう、70年、80年生きるんですから。親が最後まで付き合えるはずがないじゃないですか、親の方が先に死ぬんですから。だとすれば、障害のある人の生活の保証がなければ、いい社会とは言えない。それはそのような子どもを産んだ家族だけの問題ではないのですから、社会改革は私がやりましょうと手を挙げたのです。私は一市民だからこそこの問題を放っておけない、どうぞ皆さん、地域の人たちも応援してください、と言えば一般の人たちも入りやすくなるはずです。私は一地域住民としてその責任が十分にあると認識して「ぱれっと」の活動を始めました。1983年のことです。



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